昭和40年9月17日 朝の御理解



今朝、只今の御祈念を終わって下がらせて頂きますと、大きな建物やら、見事な建物やらの、例を見るんですけれど、釘、釘隠しというのを使いますですねえ。釘をこう打ち込んで、釘の頭が見えては可笑しいので、その上を殻かねかなんかで、私が頂きますのはあの、菊のご紋章の付いたあのう、私先日あの、京都から送ってきた、あの、本にそれが出ていたんですけれどね。釘を打ち込んで、その後に、こう、いろんな模様の、紋所のようなものを、そこに、こう、はめてあるですね。釘隠しと、こう申します。それを頂いてから、ほんとに、そうなんですけれどね、何事でもこの、一つの打ち込みと言うんが、大事なんです。信心でもそうです。例えば、修行なら修行に打ち込ましてもらう。例えば、今あの、昼、若先生を先頭に、えー、御祈念の、奉唱しております。もう、一生懸命に、いわば御祈念に打ち込む。修行に打ち込む。そのことは有難いのですけれども、その、その、打ち込んで、その後が、やれやれ、といったような気があるんですね。いわゆる、開放感とでも申しましょうか。今日も、修行終わったというものがある。その後を、一つ釘隠しです。大事にしなければいけないと思いますね。「ね」。これは、修行の後でもそう。
昨日、総会、そして、引き続いてあの、祝賀会と、終日あの、大変お繰り合わせの中に、おかげを頂いたんでございますけれども、あー、分っているんです。「ね」、それこそ心得ていながら、すべる雪の道で、分っているんですけれども、そこんところが、こうちょっと、あー、これで、本年の総会も済んだ。あー、祝賀会も済んだ。この後、何とはなしにその、いわば、菊のご紋章のそれで、釘隠しといたようなものが、なからなければ、いけないのですけれども、その後が、ちょっとおろそかになる。やれやれ、済んだというその、気分が、濃厚になりまして、昨日も、ちょっとしたそういうような失敗だったと思うんですけれども、昨日、皆さん最後に帰って見えられました。もう、12時ごろでしたでしょうか。それが、あんまり遅いもんですから、あのう、何か事故が、事故でも合っているんじゃなかろうかというので、うー、迎えに行った人が遅く、また、それを迎えに行くといったようなことで、まあ、みんな心配したんですけれども、おかげで、その事故もなかったんですけれども、その、最後のところがです。もう、ほんとに、最後まで一生懸命御用いただいた方達が、ちょっと気が抜けて、あー、やれやれ済んだというようなですねえ。やれやれすんだ。その後がです。本当におかげを頂いて有難かったといったようなもの。話を聞きますと、さあ、あちらで、祝賀会の気分が、椛目の御広前までこう、持ち込まれておる。あー、御広前ででも歌が出るといったような、雰囲気なんですね。私は、ここんところを非常に、大体大事にするんです。例えば、大祭なんかが終わりますと、もう、大祭ごろは、夜の御祈念なんかは、いい加減にして、まあだ、そこにもここにも大祭の気分が、その残っているんですねえ。わたしは、あれを大変いけないと思いますから、もう、あら、今日は、大祭で、あげな盛大な、たとえば、夜の御祈念なんかに参ってきた人達が、感じ取られるですね。ご神前を見ると、なるほど大祭の雰囲気は残っておるけれども、隅々には、きちっとこう、その、大祭の雰囲気というものはもうないんです。もう、やはり、普通当たり前に、夜の御祈念がつかえられておると、といったようなその、おかげでなからなければならないと思うですね。例えば、あのう、運動会が済んだり、夏休みが済んだりしたその後にですよ、あのう、私共の、小学校のときに、その気分が、まあだもう、学校がはじまっとるんだけれども、夏休みが、すんどらーんごたる気分で、うかうかしているといったようなことがございましょうが、「ね」。学芸会とか、運動会なんかが、済んだ跡に、まあだ、運動会がすんどらーんような気持ちが、あくる日まで、学校に持ち込まれるところに、勉強がうかうかなるんです。例えば今日当たり、朝の御祈念が、あー、お参りの少ないのも、そういうような事が、影響しているんじゃないでしょうかね。後の、釘隠しが出来てないのです。「ね」。これは、あのう、何事でも同じですけれども、特に、信心をさせていただく者。「ね」。それはそのう、祝賀会なら祝賀会の気分がもう、その、部屋一杯に漲ることは、有難い。そういうものが出ることは、有難い。大祭なら大祭のムードが一杯出ることは、御広前一杯に有難い感激の渦が巻くようなものですけれども、その後の、雰囲気というものが、何時までも残ってはならない。その辺のところを、ちょっと心がけさせて頂くと、心が、引き締まり、「ね」。ああ、やれやれと気を抜かんで済む。いわゆる、打ち込んだその後に、もう一つ、私が、今朝から御神願に頂きますように、殻金で作った、例えば、菊の花のその、紋所なら紋所の、釘隠しが、今は必要ではないだろうかとこう思うですね。これは、信心の稽古をさせて頂く者は特に、そこんところへ、焦点を、んんー、おしまいが大事なんですね、そこんところを、本当に今日は盛大な御大祭であったとか、今日は盛大な祝賀会であったとか、その祝賀会の気分がです。最後のところで、本当に有難いことであったというものでなからなきゃいけない。それが、またその雰囲気がです、ほかんところは持ち込まれていくというのは、ちょっと後の稽古、後の信心に、ちょっと支障をきたすような、気が致しますですね。これは、稽古させていただくものの心掛けだと思います。それは、もう、修行でもそうなのですから。なんか特別な修行をさせて頂いておる修行が、例えば成就いたします。あー、やれやれ、もう修行が済んだというその、開放感ですかね。それで気がゆるむ。そこに、いろんな事故が起こったりですね。その、ああ、有難かったというものを最後に、頂くことができないような気が致します。おかげ頂けたらと思いますね。